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お釈迦様の十大弟子


お釈迦様の高弟10人のことで、教団を支えた人達です。



【舎利弗と目連】 仲の良い友達同士

王舎城の東北から遠くない所にナーランダ村があり、その村の富豪でウパチッサと呼ばれている若者がいました。隣のコーリダと親しくしており、お互いの志を言い合う仲でした。ある日、近くにお祭があり浮かれている人々を見て、疎ましく思い静かな場所に行き、瞑想にふけっていました。
「あの人々は、しばしの夢を貪って、快楽に余念がない。百年経ったら誰が生きているだろう。滅びるものが、滅びるものを求めて、何とするのであろうか。」と、二人は一緒に出家をしてサンジャヤの弟子となりました。

サンジャヤは250人の弟子がいて、師と同じ位に達していたウパチッサとコーリダで、弟子の中でも上席で他の弟子達に仕えられていました。二人の間には悟りに達したものは、すぐに他の一人に告げるという約束が出来ていました。

ある朝、アッサジというお釈迦様の弟子が、王舎城に托鉢にきました。その姿の正しく、またまた行き会ったウパチッサの心を捕らえました。ウパチッサはアッサジに近づいて、托鉢が終わるまで後に従いました。アッサジが托鉢を終わって城内から離れると、ウパチッサが尋ねた。「あなたはまことに静けさに満ち、清らかに澄み切っている。誰を師としておられますか?」 アッサジはお釈迦様が師であること、入ったばかりなので詳しく説くことができないと、簡単に教えを語りました。

この事をコーリダに告げ、サンジャヤの弟子250人にも告げて、サンジャヤにこの事を語り、師が止めるのも聞かずに二人は250人を従えて、お釈迦様のいる竹林園に行きました。やがて二人はお釈迦様の弟子となり、弟子の中でも上座として敬われた。

舎利弗
【舎 利 弗】 智慧第一

ウパチッサは、舎利弗と呼ばれました。
一番お釈迦様の信頼が高かったのが舎利弗です。ときにはお釈迦様の代わりに教えを説くほどでした。










目連
【目   連】 神通第一

コーリダが、目連と呼ばれました。
目連もお釈迦様の信頼が高い方でした。お釈迦様も他の弟子達も神通力を持っていたというが、中でも勝れていたのが目連でした。

目連を激しく恨む者がいて、三度の襲撃は事前に回避したものの、理由があると思い、自分の前世を見たのです。
すると自分は目の不自由な両親を、盗賊を装って殺そうとしました。両親は盗賊を察知し、息子にお前だけでも逃げなさいと言いました。後悔した前世の目連は、家に両親を連れて帰りました。
ことが判り、4度目に襲われたとき、あえて神通力は使わずに盗賊に襲われました。肉が裂け、おびただしい血が飛び散ったにも関わらず、神通力でお釈迦様の所へ帰り、涅槃に入る(亡くなること)許しを得て、入滅をしました。




大迦葉

【大 迦 葉(だいかしょう) 頭陀行第一

頭陀行とは、衣食住に対する執着を捨てるために、実践する行のこと。
大迦葉は、お釈迦様から頂いた糞掃衣をまとい、常に托鉢をして布施されたものを、1日一食だけ食べるという行も、出家してから亡くなるまで実践をしていました。

彼の父は、カピラと呼ばれ富豪でした。母は臨月のある日、庭園のピッパラ樹の影に休んでいたとき、どこからともなく天衣が、その樹に舞い降りたとき生まれたので、ピッパラヤーナと呼ばれました。

あらゆる学術を教えられ、聡明で大人も舌をまくほどでありました。幼いときから世間の快楽を疎い、崇高なものを求めました。青年になったピッパラヤーナは父母の勧めで断りにくく、マツダ国のコーシヤ家のバッダヒーラーニーという美しい娘と結婚したが、花嫁も五欲を嫌い、浄行を願っていたので、共に枕を交わすことはありませんでした。

父母の死後、生命のはかなさを悲しみ、相談をして財産を全て使用人に分け与えると、家を出て東西に分かれ遊行の旅に出ました。

お釈迦様が竹林精舎から出て、王舎城とナーランダ村の間にある大きなニグローダ樹の下に座禅をしていました。大迦葉も竹林精舎へ向かっていた途中で、樹の下に坐っていたお釈迦様の姿を仰いで、この方こそ自分が求める大師であるとお思い、弟子にして欲しいと申し上げました。お釈迦様は教えを説いて弟子に加えました。

ピッパラヤーナはカッサパ族の出身なので、以来マハー(偉大な)カッサパ(大迦葉)と呼ばれるようになりました。マハーカッサパは、尼僧教団ができると、神通力で妻のバッターを探し出して、弟子入りをさせました。


阿那律 【阿那律(あなりつ) 天眼第一

お釈迦様が説法をされていたとき、阿那律はウトウトと居眠りをしてしまったのです。お釈迦様は説法が終わると、阿那律に「お前は法を求めて出家したにもかかわらず、説法の最中に居眠りをするとは、どうしたことかね。」
阿那律は謝り、今日から決した御仏(お釈迦様)の前で眠らないと誓いました。

それ以来、阿那律はお釈迦様の前では決して眠りませんでした。中道を唱えているお釈迦様は、極端な修行をしている阿那律を心配し、極端な修行もよくないので、眠るように言いました。しかし阿那律は誓いを立てたので、決して眠りませんでした。

そのために眼が悪くなった阿那律は、お釈迦様が呼んだお医者さんに診てもらったが、眠ろうとしない者に手の打ちようがありませんでした。お釈迦様はもう一度、阿那律に眠るように言いましたが、それでも阿那律の決心は固かったのです。

視力を失って何も見えなくなった阿那律は、真理を見る智慧の眼が開かれて、天眼第一と言われるようになりました。



ラゴラ【羅 睺 羅(らごら) 密行第一

ラゴラはお釈迦様の息子です。父の勧めで結婚したものの、出家を諦めることができませんでした。ある日、城を出ようと決めた日にラーフラが生まれたと聞き、お釈迦様は「障害になるものが生まれた」と言いました。使用人は「障害」の言葉しか耳に入らず、王に告げました。それでラーフラという名前がつきました。

お釈迦様が出家して6年後に帰城して7日目、托鉢のために城内へ入りました。妻であるヤショーダラ姫が息子のラーフラ盛装をさせ、「私はあなたの息子です。私は王になろうと思います。どうぞお宝をお与え下さい。」と言いなさいとラゴラに言いました。ラゴラは母の言う通りにし、お釈迦様にすがり「遺産を下さい。遺産を下さい。」といいました。それを見たお釈迦様は、ラゴラを連れてニグローダ林に入り、舎利弗を呼んでラゴラを出家させました。

ラゴラがまだ戒を受けていないとき、若い比丘が世話をしていたが、夜の説法が終わると、修行僧は部屋に戻って休んだが、比丘達は一般の信者と一緒に寝ました。しかしイビキや寝言が煩く眠れなかった比丘達はお釈迦様にこの事を訴えました。お釈迦様は戒を受けた者と一般の信者は、別々に寝るようにと言いました。その翌日の夜、今までは若い比丘達が世話をしてくれて、寝床の確保をしてくれていたのですが、その晩からはお釈迦様の決めた規則通りにしなければならないので、まだ戒を受けていないラーフラと一緒に寝ることができないので、ラーフラのことはほおっておきました。

ラーフラはどこで寝たらよいのか分からず、迷惑の掛からないトイレで寝ました。翌朝、トイレにいるラーフラを見つけたお釈迦様は事情を聞き、まだ戒を受けてない者でも、勝手が分かるまで比丘の部屋に泊まってよいが、3日目までには自分で部屋を探せるように比丘が面倒をみることと規則を変えました。

ラゴラの行った事は、よく規則を守った行為と賞賛されて、密行第一と言われるようになりました。


須菩提

【須 菩 提(しゅぼだい) 解空第一

誰よりもおしゃか様の「空(くう)」をよく理解したという意味で、解空第一と言われました。


須菩提のお父さんは、祇園精舎を寄進した長者の弟です。須菩提の伯父さんが、祇園精舎をお釈迦様に寄付をしたとき、須菩提も参列して説法を聞きました。そのとき深く心を動かされ、すぐにお釈迦様に申し出て、弟子になったのです。










富楼那

【富楼那(ふるな) 説法第一

ある日、富楼那は座禅をやめ竹林精舎にいたお釈迦様を訪れて言いました。「私は布教の旅に出たいと思います。最後の教えを説いて下さい。」お釈迦様は、教えを説きました。そして…

世 尊:「お前は、どこの国に布教に行くのですか?」 
富楼那:「私は教えを頂いて、スナーパランタに行こうと思います。
世 尊:「富楼那よ スナーパランタの人々は荒々しい気性です。もし彼らがお前を罵り、辱めたらどうしますか?」
富楼那:「その時は、この国の人々は善い人達であるから、私の事を撲ることはしない、と思います。」
世 尊:「もし撲ってきたら、どうしますか?」
富楼那:「その時は、この国の人々は善い人達であるから、私を土を投げたり、棒で撲ったりはしない、と思います。」
世 尊:「もし土を投げつけ、棒で撲られたら、どうしますか?」
富楼那:「その時は、この国の人々は善い人達だから、私を剣で撲らない、と思います。」
世 尊:「もし剣で撲ってきたら、どうしますか?」
富楼那:「その時は、この国の人々は善い人達だから、私の命を奪おうとしない、と思います。」
世 尊:「もし命を奪おうとしたら、どうしますか?」
富楼那:「その時は、自ら命を絶とうとする者がいます。私はこの世の悩みから解放しくれる、スナーパランタの人々は善い人達だ、と思います。
世 尊:「富楼那よ、お前は自制と落ち着きを具えているので、スナーパランタに住むことが出来るでしょう。思うとおりに行きなさい。」

富楼那は、衣と鉢を持って旅立ちました。
その年の内に男女500人の信者を得て、自分も覚りを開くことができました。
そして間もなく、富楼那は入滅をしました。


迦旃延

【迦旃延(かせんねん) 広説第一

教えを判りやすく説くことに長けていました。

迦旃延は辺ぴな片田舎で布教活動をしていたため、色々な障害を乗り越えいました。中でも受戒の問題は深刻だったといういいます。


アバンティという国で布教をしていたとき、迦旃延の侍者である青年が、自分も出家して修行をしたいと言い出しました。しかし教団に入り、出家生活を送るには、具足戒という僧侶が守るべき戒を受けなければなりません。その儀式には3人の師と7人の出家者の証人がいなければなりません。
迦旃延僧が少ないアバンティの国で、苦労して10人の僧侶を集め、青年に戒を授けました。

出家した青年は、お釈迦様に会う事を許されて旅立ちました。その時に迦旃延が青年に言いました。「世尊に会ったら、遠い異境の地では僧の数が少ないので、どうかこれからは、具足戒を授ける僧の数を減らす事をお許し下さい。と伝えてほしい」
青年はお釈迦様に会い、迦旃延の言葉を伝えました。以後は文化や環境の違いで、守ることの難しい戒を、その土地に合わせて改める事を許しました。


優波離

【優 波 離(うぱり 持律第一

教団内で、とりわけ戒律に精通し、さまざまな事件を調停したことから、持律第一と讃えられるようになりました。
優波離は身分階級制度(カースト)の中でも最下級の奴隷という身分で、釈迦族の理髪師でした。


あるとき王子のアナルッダと6人の釈迦族の若者が、お釈迦様に弟子入りするために出発しました。優波離も同行していたが、途中で王子は財宝を渡し、城へ帰るように言いました。しかし優波離は、このまま帰ればなぜ出家を止めなかったのかと責められるに違いないと思い、城へ帰らずにお釈迦様の所へ行きました。

身分の低い者でも出家出切るでしょうかと、お釈迦様は優波離の熱心さに打たれ、素直で一途な性格を見抜き、出家を許しました。
教団はカーストを認めてなかったので、平等社会でした。しかし後から出家した者は、先に出家した者を敬わなければならないという規則がありました。その規則で後から出家した釈迦族の6人は、優波離に快く礼拝しました。



阿難

【阿  難(あなん) 多聞第一

阿難は、いつもお釈迦様の傍らにおり、一番説法を聞いていました。なので結集(お釈迦様の教えを確認する集まり)は、阿難が中心となって開かれていました。


お釈迦様が入滅後、説法を聞いた弟子達が、記憶に留めておくだけでは勝手に解釈をされる事を恐れ、お釈迦様の説法をまとめる会議(第一結集)を開くことにしました。弟子達は、まだ悟りは開いてないが、お釈迦様の説法を一番多く聞いた多聞第一の阿難の出席を望みました。しかし阿難はまだ悟りを開いてなかったので、自ら出席は遠慮した方がよいか、会議の前夜まで悩みました。どころが会議の日の明け方、阿難はついに悟りを開くことが出来たので、会議へも出席をしました。

いよいよ経典をまとめる会議が始まり、大迦葉が議長を務め、戒律は優波離が中心となり、教えは阿難が中心となりました。阿難はお釈迦様が細かい戒律は、廃止をしても良いと言った事を伝えると、どの戒を廃止してよいのかと質問があり、そこまで確認してなかった阿難に責める声が上がりました。後に教団の分裂を招くほどの問題になりました。

しかし阿難は、尼僧教団を作る事をお釈迦様に認めさせました。お釈迦様の育ての親である、マハージャパティがお釈迦様の父である王が亡くなったあと、出家を希望したが認められませんでした。阿難はお釈迦様に逆らう事はなかったのだが何回もお願いをし、お釈迦様は尼僧の戒律を作り、守れるのであれば出家そしても良いと許可をしました。